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御殿場新天地 女ひとり、はしご酒

ここは御殿場、新天地。
JR御殿場駅まで千鳥足でも5分あれば辿り着くことができる、路地裏の飲み屋街。

平日のある日。陽が落ちて、新天地にポツリポツリとネオンが灯り始めたころ。
若い女がひとり、この酒の街の路上に佇んでいた。

女の名前は、御殿場愛子。
市内の会社に勤める、御殿場生まれ御殿場育ちの30歳。

この日、本当は御殿場駅の周辺で彼と食事を楽しむはずだった。
3日前に、彼の裏切りを知り合い伝いに聞いてしまうまでは…。
愛子は仕事を理由に約束をキャンセルしたいと彼に伝え、電話を切った。

この日に限って仕事も定時で片付いてしまい、夜を持て余した愛子は新天地へ。
そして藍色の暖簾が掛けられたばかりのとある店へ、足早に向かった。

-大衆割烹 松楽(しょうらく)-


「こんばんは」
「あら、愛子ちゃんいらっしゃい。ビールと、いつもので良いかしら?」
愛子が暖簾をくぐると、おかみさんが明るい声で迎え入れた。
松楽は、オーナー夫妻の息子が生まれた年と同じ、昭和48年オープンの日本料理店だ。ここ新天地ではもっとも古い店になる。

愛子が新天地ではしご酒をするときは、まずここでお腹を満たしてからと決めている。
必ず注文するのは、唐揚げ定食。
松楽には揚げ物から煮物、焼き魚、串焼きまで豊富なメニューが用意されているが、愛子はいつも、この唐揚げ定食を頼んでいる。
いつしか、「いつもの」で通じるようになっていた。

ここの唐揚げは、ゴルフボールのような丸い形をしているのが特徴で、しっかりと下味の付いたジューシーな鶏肉が歯ごたえのある衣に包まれている。

「どうしたの。なんだか元気ないみたい」
おかみさんが心配そうに声をかけてきたが、愛子は静かに首を横に振った。
「ううん、大丈夫。今日の唐揚げも、すごく美味しいね」
おかみさんと他愛のないおしゃべりをしながら唐揚げ定食を平らげ、瓶ビールも飲み終わったころには、少しだけ心が軽やかになっているのを感じた。

「また来るね」
愛子はふたたび藍色の暖簾をくぐり、ネオンが灯る路上に立つと、駅前に向かって歩きはじめた。

-スナック 宵音(よいのね)-


「新天地」とは、新橋公園の西側、県道153号線の東側に位置する区域を斜めに走る、一本の道沿いに連なる飲み屋街を差す。

愛子が二軒目に向かったのは、新天地から少し駅の方へ歩いた場所にある、狭い路地の一番奥に佇むスナック「宵音」。
ピンク色の優しい光に吸い込まれるように、愛子はお店の扉を開けた。
細長い店内には、カウンター席と、テーブル席がひとつ。
愛子はカウンター席に座った。

宵音がこの場所にオープンしたのは、ちょうど三年前。
ママの落ち着いた雰囲気が居心地よく、愛子はこの日のように気分が浮かない日によく足を運んでいる。
「はい、どうぞ」
愛子の注文を聞く前に、ママはよく冷えたハイボールを愛子の前に差し出した。

カウンターの奥には、常連客と思われる男性が3人。
順番にマイクを回し、昭和歌謡を歌い続けていた。

“女に生まれて来たけれど 女の幸せまだ遠い
せっかく掴んだ愛なのに 私のほかにいい人いたなんて”
(出典: よせばいいのに/作詞:三浦 弘 作曲: 作詞:三浦 弘)

カラオケのモニターを見つめながら、こぼれ落ちそうな涙をこらえる愛子。
ママはなにも言わずに、そんな愛子をカウンター越しに見守っていた。
「ママ、ちょっと聞いてほしい話があるの」
常連客たちの歌声をBGMに、愛子はこの数日にあった出来事をママに話しはじめた。
「まずは彼に会ってみたら? 話はそれからよ」
愛子の話を黙って聞いていたママからアドバイスをもらい、ただ現実から目を背けていただけの自分に気づく愛子。

「ママ、ありがとう。また話を聞いてね」
愛子は、ママの存在に感謝しながら店を出て、同じ並びにあるスナックへと向かった。

-スナック ぽてと-


「いらっしゃい! カウンターなら空いてるよ。さあ入って入って!」
店内では、カラオケを楽しむ常連客の大合唱が沸き起こっていて、平日とは思えないほど賑わっていた。
愛子がカウンターに腰かけると、さっそくお通しとハイボールが手際よく並べられた。

子どもの頃のお弁当に入っていたような小さなソーセージに、豆腐、枝豆。
目の前にはいつも明るいママがいて、店内には笑い転げていたり、マイクを離さず熱唱していたり、カウンターの隅で酔いつぶれていたりする常連の人たちがいる。
気負いせずにいられるこの空間に、愛子の心も少しずつほぐれていった。

「愛ちゃんもなにか歌いなよ!」
ひとりで手酌酒をしながら吉幾三の『酒よ』を熱唱していた男性にマイクを渡され、愛子は手元のデンモクに曲名を入れて送信した。

“一度だけなら 許してあげる 
好きな貴方の 嘘だもの
騙されましょう 聞かぬふりして 許してあげる”
(出典: 一度だけなら/作詞:山口洋子 作曲: 猪又公章)

「かんぱーい!」
歌い終わったらすぐ、カウンターの常連客たちが杯を交わしてきた。
愛子は、ひとりで抱え込んでいた悲しみを飲み干す勢いで、グラスの中のハイボールを空にした。
「ほら、飲んで飲んで」
すかさず、空いたグラスに新しいハイボールを注ぎ込むママ。
愛子の乾いた心に水を与えるように。

賑わいが冷めやらないスナックぽてとを後にして、愛子は最後のお店に向かった。

-居酒屋 庵(あん)-


「今夜は、もう一杯だけ飲みたい」
そんな愛子がたどり着いたのは、一年前にオープンしたばかりの居酒屋、庵。
県道153号線から新天地の通りに入ってすぐ、「庵」と大きく書かれた暖簾が目印の店だ。
オーナー夫妻はこの御殿場という地が気に入り、東京から移り住んで店を営んでいる。

店内の大きな冷蔵庫の中には、全国各地の銘酒がずらりと並ぶ。
そう、ここは日本酒が豊富に揃う居酒屋で、料理も日本酒に合うものが多く揃えられているのだ。
愛子はカウンターに座り、めずらしい佐渡のお酒「北雪」と明太子の燻製、鳥わさを注文。
キッチンの奥から料理人であるご主人が出てきて、鳥刺しに合わせる生わさびを目の前ですりおろし始めた。

「とても美味しい…」
生わさびのほのかな辛味に刺激されて、愛子のほほを涙がこぼれた。
ひとしきり涙を流したあとは、まるで生わさびの後味のように、心の中もスッキリとしているのを感じた。

「…そうだったんだ。それは辛いわね」
優しいまなざして愛子の話を聞いてくれる、庵の奥さん。
心の乾きを潤してくれる、美味しいお酒と料理。
いつの間にか、愛子の顔からは笑顔がこぼれていた。
「明日、彼に会うわ」

ここは御殿場、新天地。
市民や訪れた旅人の、喜びや悲しみが交差する街。

はしご酒・店舗情報

一軒目 大衆割烹 松楽
静岡県御殿場市新橋2042
電話番号:0550-83-5039
※現在営業はしておりません。
二軒目 スナック 宵音
静岡県御殿場市新橋2035
電話番号:
三軒目 スナック ぽてと
静岡県御殿場市新橋2035
電話番号:0550-82-7863
四軒目 居酒屋 庵
静岡県御殿場市新橋2073-15
電話番号:0550-82-1465

※この物語は、実在する飲食店を舞台としたフィクションです。

写真:蟹由香